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浪漫万丈

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●大沢樹生の光GENJI時代




姉の応募をきっかけにジャニーズ事務所に入った大沢樹生さん。13歳で『イーグルス』としてデビューするも、鳴かず飛ばず。バックに戻るつらさも味わった。

「これ以上、ここにいてもダメだとジャニーさんに話したら、“本気なの? ユー、ローラースケートはできる? 絶対スターになれるからやりなよ”って」

これが光GENJIの始まりだった。3か月間ローラースケートを特訓、1987年末にデビュー。社長の予言どおり人気に火がつき社会現象を巻き起こす。

「1日3回公演の日もあって“かったりぃなあ”なんて言いながらもステージに立つと燃える。自分たちのパフォーマンスでファンが喜んでくれるのは、すごく気持ちよかったですね」

人気が出ている実感はなかったそうだが、田原俊彦さんの部屋にお邪魔したら、

「トシちゃんの部屋が全面鏡張りでめちゃくちゃ広くて、ジュースも飲み放題。すごすぎてキョトンとしながらも、“これが芸能界かー!”と肌で感じた」

グループでは年長組の大沢さん。必要以上になれ合わなかったというが、

「仕事でパーティーなんかに行くと、みんなが俺の振る舞いをまねしてるのがわかった。こっちが20代で相手が10代だと、だいぶオトナに見えたんですかね。俺も正しいマナーなんてわからないし、リーダーは内海(光司)君なんだけど(笑)」

当時、陰ながら恋愛も。

「ただ、女性アイドルにはいかなかった。マネージャーたちが“大沢には気をつけろ”っていう空気をバンバン出していて。キザとか近寄りがたいとか言われたりしていたからかな? だから“意地でも誘うか”って思って(笑)。同じ人と長く付き合ってましたよ」

代償は大きかった

そして'94年、人気絶頂のときに脱退宣言をする。

「映画や演技に気持ちが向いていったんです。ファンの“辞めないで”という何万もの署名には胸が痛んだけど、夢を追うための決断でした。そのかわり“この先、たとえホームレスになってでもやってやる”くらいの覚悟でしたよ」

だが、代償は大きかった。

「ひとりで全テレビ局に挨拶回りをすると“君とはもう仕事できないよ”と言うプロデューサーもいましたね。費用が1000万円しかない自主製作映画『日本製少年』に出たときは僕が出演者を車で送ったりもした。でも物作りに携わっている実感があったし、評価してもらえたときはひときわうれしかった。自分ひとりじゃ生きていけないんだってことにも気づけました」

着実な活動が実を結び、3~4年するとテレビ局からも声がかかり、挨拶回りのときに断られたプロデューサーの作品にも呼ばれた。

「いま思えば、僕はアイドルを演じきれなかったんでしょうね。だから25年も続いたSMAPはやはりレジェンド。立場や状況はまったく違うけど、心境はどこかわかる気がする。彼らの決断を周りがとやかく言うのはナンセンス」

最近は映画の監督業にも進出し、かつて人気を二分した諸星和己さんとの共演も。娘にも恵まれ、個人事務所を支える社長でもある。

「一時は拒絶していたけれど最近は当時を懐かしめるようになりましたね。『ガラスの十代』や『荒野のメガロポリス』は、いまステージで歌ってもいい歌だなって、ジーンときますよ」







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