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- Date:2024年11月22日
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ここに1冊の古びた本がある。「憂論 日本はいまなにを考えなすべきか」。松下電器産業(現パナソニック)の松下幸之助とソニーの盛田昭夫による昭和50(1975)年に出版された対談集である。
電機業界のみならず日本を代表する経営者2人の異例の対談だが、内容は戦後30年を経て日本が直面する問題についての辛辣(しんらつ)な言葉が並ぶ。
50年といえば、高度成長期が終わり、48年の石油ショックなど厳しい側面もあったが、それでも日本経済の歴史の中では「安定成長期」。国民の多くがまだ日本の勢いに酔いしれていた時期だった。それにもかかわらず、幸之助は提言や著書で日本の未来について警鐘を鳴らし続けた。
83歳で決意した「松下政経塾」設立
「独自の国家観を持っていただけに、当時の政治の状況とギャップがあったのだと思う。日本の財政、経済のあり方をとても心配していた」。衆院議員で松下政経塾5期生の伊藤達也(52)はこう振り返る。
50年には初の赤字国債が発行され、松下政経塾塾頭の古山和宏(55)も「日本の繁栄がうわべだけの繁栄で、真の繁栄ではないことを分かっていた」と話す。
PHP研究所(京都市)を設立し、40年代後半からは自ら政治関係の著書を相次ぎ発表するが、幸之助の中には「それでも世の中は変わらない」とのいらだちが募る。
何が足りないのか。「やはり人か…」。実は、幸之助は41年に松下政経塾の構想を披露するが、周囲の反対で断念していた。それから10年あまり。次代を担うリーダーが必要との結論を再び出す。83歳のときだ。
経済ジャーナリストの財部(たからべ)誠一(57)は「幸之助氏は、政治家を育てるという土壌を変えることで政治を変えようとした。当時としては卓見である」と評価する。
「政経塾で死ぬことができたら本望や」
今にも雨が降り出しそうな曇り空の下、石造りの門をくぐり抜けると、高さ約30メートルの塔と「民主主義発祥の地」として有名なギリシャの建築様式を取り入れた建物が目に飛び込んできた。
神奈川県茅ケ崎市。34年前の昭和55年4月1日。松下政経塾の第1期生入塾式も同じように悪天候の日だった。
「ここで死ぬことができたら本望や」
風邪で体調を崩していた幸之助に対し、式終了後に周囲が「大丈夫ですか」と声をかけると、こんな一言が返ってきたという。パナソニック副会長で、幸之助の孫にあたる松下正幸(68)は「政経塾はパナソニック同様、幸之助にとって子供、孫のような存在でしたから」と話す。
自ら塾長に就いた幸之助は、意外にも塾生に2つのことしか求めていない。政経塾には幸之助の講話など計91時間27分の肉声テープが残されているが、松下政経塾政経研究所所長の金子一也(46)は「『国家ビジョンをつくる』『それを実践する』ということしか言っていない」と明かす。
「経営理念」を持たない企業が欧米など海外にとどまらず、近年は日本でも増えている。しかし、幸之助ほど経営理念にこだわった経営者はいない。
金子は「何のために、何をするのか、ということが分かるまでは動かない人だった」という。幸之助は企業に「社是」が必要なように、国にも国家経営の基本方針で、国民共通の努力目標となる国家ビジョン、つまり「国是」が求められると説く。その研究と提言を政経塾に託したわけだ。
国是は長い年月をかけてやり遂げる、まさに「国家百年の計」。幸之助は、塾生に対し「政経塾は、日本の政治は100年先にはこうなると発表する。それをしなければならないことを塾生に皆得心してもらう」と話している。
100年後の日本とは-。幸之助がたどり着いた答えは「無税国家」と「新国土創成」である。ただ、これらは政治家を志しているとはいえ、20、30代の若者には手に負えない壮大な難作業だった。