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浪漫万丈

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●近世の春画摘発(上)

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140227/wlf14022720330035-n1.htm


【関西歴史事件簿】近世の春画摘発(上) AV真っ青、江戸「春画」の猥褻度…宮中での“色事”無修正秘本、人気浮世絵師「逮捕」の衝撃

2014.3.2 07:00

背後に暴れん坊将軍、大岡越前の姿

「暴れん坊将軍」こと徳川吉宗が江戸幕府第8代将軍に君臨していた享保8(1723)年、宮中を舞台にした春画を描いたとして京都の浮世絵師、西川祐信(すけのぶ)が逮捕された。封建政治の下、民衆の不満のはけ口として人気を集めた春画だったが、乱れた風俗を一掃したい吉宗の方針で江戸南町奉行、大岡越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ)が排除目的の法令を出す。その翌年に起きたのが祐信の逮捕劇だった。当時、大半の浮世絵師が春画に手を染めていただけに、業界にも大きな衝撃が走った。

皇女と××(ちょめちょめ)

事件の詳細な内容はわからないが、講釈師、馬場文耕(ぶんこう)が宝暦7(1757)年に見聞きしたことをまとめた「近世江都著聞集」によると、御用になった本というのが、「夫婦契ヶ岡」という題名だったらしい。

ネタ本となったのが、祐信自身が各階層の女性を描き、京都の大手出版社「八文字屋」から享保8(1723)年に出版された「百人女郎品定(じょろうしなさだめ)」。

この本も皇女から商家や農民や遊女、茶屋女らすべての階層の女性を2巻にまとめた、美人品評会的な性格を持つ、ただの風俗絵本だった。

ただし皇室や武家の貴人も一緒に入れて「女郎」とした不敬罪まがいの刺激的な本の題名と、狩野、土佐両派に絵を学んだという祐信のはんなりした画風も手伝い、江戸でも飛ぶように売れ、祐信の名を一躍有名にするほどの名作となった。

だが、これまでも数々のわいせつ画像を世に送り出してきた西川&八文字屋のコンビ。世の中が普通の浮世絵だけで納得するはずがない。

1冊も残っていないため具体的な内容は不明だが、春画をふんだんにとり入れた画集形式で出版したとみられ、馬場の「近世江都著聞集」には次のように綴られている。

「雲の上人の姿をつがひ絵(春画)に画し、やんごとなき方々の枕席(ちんせき)(男女が寝床をひとつにすること)密通の体を模様にして、清涼殿の妻隠れ…と、いろいろ玉簾(たますだれ)の隠し事などを描きしによりて…」

御所で××

このように、実体がほとんど知られていない「夫婦契ヶ岡」だが、十数年前の宝永8(1711)年、八文字屋から出版し、同じ西川祐信が挿絵を担当した浮世草子「色ひいな形」が内容的に最も近いのかもしれない。

表面では、作者は八文字屋の主人、八文字自笑ということになっているが、実際は、自笑のゴーストライターを長年務めていた浮世草子作家、江島其磧(きせき)が執筆していたことが分かっている。

ここでも、公家や侍、農民、町民、商家などにわかれて構成されている。御所の場面を見る限り、蔀戸(しとみど)や簾(すだれ)、牛車(ぎっしゃ)を背景に大胆にデフォルメされた陰部をさらした男女の交わりが表現されているなど、アダルトビデオ真っ青のわいせつ表現で占められている。

祐信より20歳ほど年上の大坂の浮世絵師、英(はなぶさ)一蝶(いっちょう)は当時の将軍、徳川綱吉を風刺した絵を描いたとして、12年間の島流しという憂き目に遭っている。

「色ひいな形」が当時取り締まりの厳しかった政治批判を目的とした風刺画でなかった分、助かったのかもしれないが、好色本すべてが対象の大岡の法令下なら祐信もきつい責めを受けて、本も絶版となっていただろう。

でも吉宗が将軍職に就く5年前。当然ながら法令も存在していない。

好色××

あらゆる政治批判を禁じた世相を反映し、民衆が不満のはけ口にわいせつな世界へ目を向けた元禄期、井原西鶴が「好色一代男」など艶っぽい文学作品を発表し、浮世絵の世界でも、江戸の菱川師宣(もろのぶ)らによって春画が次々と世に出されてきた。

対する、大岡越前が享保7(1722)年に出した読売禁令と出板(版)令には、心中物を扱った本や好色本は既刊も絶版とし、これから出す本も業界から選ばれた選定委員が出版の可否を決める-などといったことが定められていた。

以来、心中と好色は絶版へと追い込まれていくが、「このままじゃやっていけない」と、出版業界も西鶴の浮世草子「好色五人女」を「当世女容気(かたぎ)」に改題するなどして、当座をしのいでいく。

そんな中、祐信の逮捕事件は大岡の法令に初めて触れた事例だったのかもしれない。

八文字屋と祐信は「風刺画じゃないので…」などと軽く見ていたのか、大切な収入源となっている春画を捨てきれなかったのか、それとも政治権力への反抗心で筆を執ったのか。

資料によっては、遊女らと一緒に並べられて怒った公家が幕府に絶版を申し入れたという話もあるが、いずれにせよ祐信自身がこのときどんな処罰を受けたのか、わかっていない。

(園田和洋)

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