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- Date:2024年11月22日
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(上)宮中“色事”無修正、浮世絵師を逮捕…から続く
江戸時代中ごろ、宮廷を舞台にした春画を描いたとして逮捕された京都の浮世絵師、西川祐信(すけのぶ)は当時、高級貴族・西園寺家の家臣だったという。朝廷からすれば主人に弓を引く反逆行為ということになるが、これには菱川師宣(もろのぶ)亡き後、浮世絵界のトップに一気に躍り出た祐信の立場、さらには時代や業界の要請が背景にあったようだ。そして大岡越前の姿も…。
輸入エロ本「春宮画」
春画のような高い芸術性を持ったわいせつ画は、美人画などを中心に描いていた当時の浮世絵師が、中国から入ってきたエロ本「春宮(しゅんぐう)画」を模したところから本格的に始まったとされている。
江戸時代初め、中国との貿易が盛んになり、明時代の官能小説「金瓶梅(きんぺいばい)」など春宮画がどんどん入ってくると、もの珍しさも手伝って大いに売れた。
需要が高まるにつれて、もうけたい一心の出版業者は、お抱えの絵師に同様の絵を依頼する。
当時は、幕府や朝廷の御用絵師から町絵師まで先人の作品をまねる「粉本(ふんぽん)」という手法が華やかな時代だった。初めは春宮画をお手本として、日本語に直して絵は原画をそのまま写すだけといった和訳本が出版されていく。
ところが、絵師の方も模倣を重ねるにつれて描写のコツをつかみ、腕前をあげてくると、今度はそれだけでは飽きたらず、お互いに個性を競い合うようになっていく。
一部の体位などは春宮画を利用しつつ、人間描写や背景については日本人好みに情緒深く、しっとり感を漂わせた浮世絵「春画」へと発展させていく。
まさに出版元からの依頼を受けてナンボの世界。浮世絵の創始者で、「見返り美人」などの名作を生んできた江戸の菱川師宣(1618~94年)でさえ数多くの春画を手がけていた。
そして師宣が亡くなるとその画風を受け継ぎ、人気を不動のものにしていったのが祐信だった。
師宣に感じて…
祐信は寛文11(1671)年、父・祐春、母・樹昌院の三男として京都で生まれた。摂関家・藤原氏の流れをくむともいわれ、父の職業は不明だが、祖父は医業にかかわっていたらしい。
元服後、左大臣にまでのぼりつめる西園寺致季(むねすえ)の家臣になると、幼い頃から画才はあったのだろう、狩野山楽の流れをひく京狩野派の狩野永納(えいのう)や、宮廷絵師の土佐光佑(みつすけ)らに絵を学んだといわれている。
ちょうどそのころ、江戸では師宣が描いた浮世絵が流行する。特に芸術性の高い美人画は、挿絵程度だった浮世絵の地位を高め、江戸だけでなく関西でも人気を集めた。
のちの画風からして20歳代だった祐信も師宣の絵に大いに触発されていたようだ。以後、西園寺家で勤務するかたわら浮世絵師としての道を歩んでいく。
そして30歳前後にもなると、師宣や鳥居清信といった先人の作品から学びとった意匠や技術に、独自のアレンジを加えた祐信風が花開く。
当時の浮世絵は、江戸では本の挿絵から絵が独立した一枚刷りに人気が出ていたが、関西では依然と挿絵が主流だった。
祐信もこのころから、浮世草子作家の江島其碩(きせき)や京都の大手出版社「八文字屋」との仕事が増え、江島の浮世草子など八文字屋が出版する本の挿絵をこなしていくようになる。
大岡越前の影
京狩野派や土佐派といった正統派の絵師から基礎を学んだためか、庶民向けの春画とはいえ、これまで以上にあか抜けた、趣のある画風が人気を呼んだのだろう。
当時の八文字屋の広告を見ても、「大和絵師西川祐信」の名前を前面に押し出していることから、祐信が押しも押されもせぬ八文字屋の看板絵師だったことをうかがわせている。
また、江戸で美人画を多色刷りという手法でカラー化した「錦絵」を始めた鈴木春信も祐信の門人の1人というように、師宣亡き後、祐信が浮世絵界に及ぼしていた影響力は相当なものだった。
それだけに、退廃した風俗を正すという幕府8代将軍、徳川吉宗の意向を受けて、わいせつ本を取り締まる「出版令」を制定した江戸南町奉行、大岡越前としては、「見せしめ」という意味でターゲットに人気絶頂の祐信に目を付けたとしても不思議ではない。むしろ当然のことだろう。
京都の朝廷も、西園寺家の家臣ながら弓をひくような祐信の行為に激怒したともいわれているが、祐信の息子、祐尹(すけただ)も父親と同様に西園寺家の家臣兼浮世絵だったということから、幕府に重い処分を求めたとも思えない。
やはり、祐信の逮捕劇の裏側には大岡越前の影が見え隠れしている。
(園田和洋)